お断り:誰か、特定の個人を非難、中傷する意図は、まったくありません。
件名:TextBox のVisibleプロパティを False に設定するとプログラムから書き込みも参照も出来なくなる。(Insider.NET 会議室)より:
投稿日時: 2007-11-27 13:44
1.TextBoxにデータソースから該当フィールドをドラック&ドロップ(バインド)する操作をコードで記述する力量
2.TextBoxが該当フィールドとBindしてデータを受取る前に、VisibleプロパティをFalseに設定をコードで記述する力量
デザイナで設定しているのでこの部分はコーディングしていません。
Visual Studio … だけでなく、Borland など、各社の Integrated Development Environment、統合開発環境や、各種フレームワークは、より簡単に、早く、アプリケーションを作成できることを目指しています。大胆にも、これに疑問を投げかけてみようかと思います。
私がコンピュータに初めてふれたのは、1982年かな?私がカメラを買おうと思っていたお金を、親父が「ちょっと貸してな」と持って行き、帰ってきたら PC-6001 というコンピュータに化けていました。この当時、コンピュータの解説本、プログラムの説明本などほとんど無く、もちろんインターネットもなく、開発環境などというものもなく、メーカーから出ている N60-BASIC 解説本を手垢で黒くなるまで読み込んで、試行錯誤をして会得していました。
ところが今は、単語を途中まで入力したら、補完候補が出てくる。わからなくなれば、ネットで聞けば教えてもらえる。便利な世の中です。でも、本当に、それでいいの?
「簡単にできる」・・・とても魅力的な言葉です。就職してからは C がメイン言語だった私が Managed C++ に初めてふれたとき、「アロケートしても、解放はフレームワークに任せておけばよい」というのは、最初は受け入れがたく、混乱の極みでした(参考:件名:Managed C++ != C++)。が、試行錯誤を繰り返すうち、使いどころというか、便利に利用する方法が身について、実際の開発は VB.NET で行うことになったのですが、その頃には「そういうもん」という意識ができあがっていました。
「簡単にできる」・・・これは、両刃の剣だと思うのです。Visual Studio 2005 では、データ ソース ウインドウからデザイン中のフォームの上にデータ項目をドラッグ&ドロップすると、対応したコントロールが配置されます(参考:第4回 ドラッグ&ドロップで作るWindowsデータベース・アプリケーション)。短納期、低価格でアプリケーションを納入しなければならないとき、こういう機能は大変魅力的です。しかし、一方で、仕組みを理解できない開発者を作ってしまいます。
このスレッドの質問者がいい例です。彼は、データ ソース ウインドウからドラッグするのが当たり前だと思っていらっしゃるようです(注意:これが良い、悪いについては言いません。ただ、事実があるのみです)。しかし、もっと前から開発に携わっている人にとって、それは当たり前の開発方法ではないでしょう。VC++6.0 以前のユーザからすれば、「CreateWindow でテキストボックスを指定して作り、別に取って来たデータをそこに表示できるように整える」のが当たり前の開発方法になるのでしょうか。この場合、「データとの連動が簡単にできる」ようになったことで、どのように実現されているかという知識が失われました。簡単への代価として、それは小さなものなのでしょうか。
「簡単にできる」・・・本当に簡単にできていいのでしょうか。あるいは、簡単になることで犠牲になることと、天秤にかけられているのでしょうか。
「簡単にできる」ことで発生する問題。もっと別の視点で見てみましょうか。同じように、「簡単にできるようになって良かったの?」からはじめてみます。ちなみに、私はこのように、コンピュータ上の問題を他の分野にも広げることで、記憶のタグを増やしています。
近代化で、農耕を機械でできるようになり、便利になりました。本当にそれは良かったのでしょうか。昔は、田植えや稲刈りは、村の人が互いに手伝って、大人数でしていたと思います。機械化で、少人数でも簡単にできるようになりました。このことだけを見ると、簡単になったのはよいことだと思われます。しかしその一方で、「少人数でできる」すなわち「人がいらない」という事態が発生していないでしょうか。これは、「簡単になったんだからしょうがない」で済む話なのでしょうか。
第一次産業で労働力があまったため、サービス業に労働力が集まります。これにより、生活のいろいろな面で、簡単便利になりました。掃除機、洗濯機などは、主婦の労力を軽減しました。これ、本当に良かったの?それによって、女性が社会で働く機会が増えました。女性にとっては、それは好ましいこととして受け入れられています。しかし、労働力が増えた、という面で見たとき、本当に良かったのでしょうか?今では電車の車掌や運転手、運送配送業、重機の取り扱いなどにまで女性が進出しています。それらも、様々な「簡単」のおかげで、人の労力が減っています。仕事場では人の労力を必要とする機会が減っている、人の労力に余剰ができているわけです。これは、簡単の対価として釣り合うものですか?
女性の働く機会が増えたため、「女は家にいるもの」という考え方が古い、間違ったものであるとされ出しました。この結果、母親が家に不在になりました。もちろん、父親が家にいてもいいのですが、そうなっていますか?どちらも家に不在になるケースが、圧倒的に多くないですか?つまり、子どもが家に取り残されている、と。
こうなると、父親も母親も、自分の仕事で忙しいし、余暇を楽しみたいと思う気持ちも強くなるでしょう。労働力の簡易化が進んだため、今度は余暇の簡易化が進んできました。すなわち、電子ゲームです。これは便利です。実際にはできなくても、テニスやゴルフ、野球やサッカー、なんでもできるつもりにさせてくれます。
晩婚化や少子化が進むのは、実は生活のあらゆることが簡単便利になったからじゃないですか?余暇を楽しむためには、子どもや同居人がいるのはじゃまです。結婚しない、生まない、あるいは子供が生まれても塾や習い事に行ってもらいましょう。あれ?「ゆとり教育」につながってきましたね。でも、こう考えると、塾や習い事に子どもが行かされるのは、親にゆとりがないから、となりませんかね。そうすると、ゆとり教育が間違ったのは、ゆとりを与えるべき人々の選択、ということですね。
この先、税制にもつながっていきますが、止めておきましょう。ここで知って欲しいのは、「問題は、連鎖している」ということです。
「フラクタクル図形」というものをご存じでしょうか。同じような図形が繰り返し現れます。これは、自己相似というのだそうです。こちらのページの方がおもしろいかな?→フラクタル。 この図形は、全体としてみると一つの大きな図形ですが、部分部分を拡大すると、同じような図形の集合になっています。私たちの世界とは、このようなものではないでしょうか。あなたの問題と私の問題。違っているようで、実は同じなのではないでしょうか。
この世の全てのものは、他のものを別の形で投影しているのではないでしょうか。それぞれは、違う問題のように見えていますが、それはそのように見えているだけで、本当は同じ問題なのではないでしょうか。少なくとも、全ての事象は他の事象と連携しています。それぞれの事象を切り離して考えるから、他の事象が問題として大きくなってしまうのです。つまり、ある問題だけを「簡単に」するから、他の問題にしわが寄るのです。
私は仕事をしながら常々思います。「これ、簡単にしていいのだろうか?私がしている仕事は、誰かの仕事を奪うことじゃないだろうか。」
鉄腕アトムをご存じですか?これを最初に読んだとき、恐ろしいと感じたことを覚えています。
鉄腕アトムの世界では、人間のかわりにロボットが働いています。ロボットが、人間に変わる労働力となっているのです。アトムは感情を持ち、考え、行動します。現在のロボットにできず、人間がロボットに勝っている部分を、アトムはこなしています。
アトムの世界では、考えることさえロボットがやってくれます。では、人間が存在する意味は?
簡単になるのって、本当にいいことなのですか?
投稿日時 : 2007年11月29日 23:38