最近、通勤電車内で「ヒューマンエラーを防ぐ知恵」を読んでいます。

その中の一部で気になったところを抜き出してみました。
ワインバーグは「コンサルタントの秘密」の中で、こんなことをいっています。
第一の問題を取り除くと、第二番が昇進する。
例として、列車事故における乗客の脱出避難方法について書いてみます。
■「桜木町事故」
列車のドアの近くには「非常用ドアコック」が設置されています、なぜ設置されたのでしょう?
その由来は、1951年(昭和26年)4月24日13時45分頃、神奈川県横浜市の日本国有鉄道の東海道支線、桜木町駅の構内で発生した列車火災事故「桜木町事故」にさかのぼります。
この事故は、桜木町駅付近を走行中の満員電車に火災が発生し、中に閉じ込められた106人もの乗客が焼死し、重軽傷者92人を出す大惨事となりました。
工事のミスで架線が垂れ下がりパンタグラフに絡みつき、驚いた運転士がパンタグラフを下ろしたが、パンタグラフが横倒しになり車体と短絡し火花が発生、当時の車体にはベニヤ板が使われていたため、天井から燃えはじめた電車はあっという間に炎上しました。
1輌目には150名以上の乗客が乗っていました。しかし、自動扉は電気が使えなくなったため開かず、パニック状態に陥いった乗客たちはなだれを打って1輌目の後部から2輌目に逃げようとしたものの、当時の貫通扉は内開きの開き戸だったこともあり、脱出しようとする乗客の圧力で開かず、また窓は中段を固定した3段構造で開口部の高さ29cmしかなく、ここからの脱出も出来ませんでした。
また、乗務員や駅員すらも非常用ドアコックの位置を知らなかったため扉を外部から手動で開けることもできなかったのです。
まさに袋のネズミとなった乗客たちは、その場で焼き尽くされるという悲惨な事故となりました。
この事故を受け、非常用には乗客が自らドアを開けて脱出できる手段を講じるべきとして、列車のドアの近くに「非常用ドアコック」が設置されています。
これにより、第一の問題である「乗客の裁量で脱出できない」ことは消滅しました。
すると、第二の問題が昇進します。乗客の脱出が裏目に出る事故が発生したのです。
■「三河島事故」
1962年(昭和37年)5月3日21時37分頃、東京都荒川区の常磐線三河島駅構内で発生した列車脱線多重衝突事故である。
この事故は、列車同士の軽い接触という小さな事故が発端でした。
立ち往生した列車からは、乗客たちは「非常用ドアコック」を使って勝手に線路を歩きだします。
その線路に別の列車が突入、列車が乗客多数をはねた上、上り本線上に停止していた先頭車と衝突したのです。
その結果、死者160人、負傷者296人を出す大参事となりました。
この事故によって、「事故が起きたら、安全が確認されるまでは付近の列車をすぐに停めなければならない」と規則が改正され、列車制御装置などの導入が進められた。
さて、第二の問題が解決すると第三の問題が昇進します。事故が起きたら列車をすぐ停める方針が裏目に出る事故が発生したのです。
■「北陸トンネル事故」
1972年(昭和47年)11月6日午前1時10分頃、北陸本線の敦賀駅~南今庄駅間にある北陸トンネルを走行中の大阪発青森行き急行「きたぐに」の食堂車に火災が発生しました。
「三河島事故」を教訓にしたがって、列車を停止しました。そこは全長14kmもある長大なトンネルの中ほどの位置だったのです。
また、トンネル内のといが剥がれ落ちて架線に触れ、送電がとまっていたため、列車は身動きができない状態になってしまいました。
長大トンネル内での約760名の乗客の避難誘導は極めて困難であり、結果として、30名が一酸化炭素中毒による死亡、また714名の負傷者を出す大惨事となりました。
実は、この事故の3年前にも北陸本線内で火災事故がおきていました。トンネル内を走行中の寝台特急「日本海」で火災が発生しましたが、乗務員は機転を利かせ、当時の規定を無視し、トンネル脱出と同時に消火、死傷者はゼロでした。しかし、国鉄はこれを「規定違反」として乗務員を処分していました。
この事故を受けて、トンネル内の列車火災では、トンネルを抜けるまで列車を停めないこととする規則改定や、可燃性の車両を全廃する経営政策などの解決策が打ち出されました。
ワインバーグの意見にしたがえば、第四番の問題が待ち構えているはずですが、それが何であるかは今は分かりません。
未発生の問題を先手を打って防ぐことは非常に難しいのです。問題を完全に消去しようとするなら、永久に考えを進めなければなりません。
少しでも、事故が起こりにくく、被害が小さくなるように問題を変換する努力は必要です。