真面目モードで行ってみます。「まじめ」というのは、前回のは、他の事のついでに、勢いで書いているからです。「ついで」のほうが長い、というのは、気のせいです、きっと。
さて、まず、前回の憤りの理由を明らかにしましょう。っていうか、それしかないのですけど。あまりにも無責任な発言。それに文句言いたかった。それがメインです。元の記事から、いくつか引用しましょう。
ビビリな若者たちよ!! 実名ブログで自分を「見える化」する勇気を!!(久米信行の「企業経営に生かすブログ道」)より:
特に女性には「私が顔写真入りで実名でブログ発信したら,アクセスが殺到したりストーカーが現れて大変なことになってしまう」と思っている人も多いようです。
どうやら「ブログに過大な期待と恐れ」を持っているだけではなく,当人は意識していないかもしれませんが「自意識が過剰」なようです。
そんな幼少期の経験があるからか,今では見知らぬ人に話しかけるのも話しかけられるのも,何の苦にもなりません。そして,その時々の相手の気持ちを察し,間合いを測りながらも,自分の素直な気持ちを伝えることが,知らず知らずのうちにできるようになったのです。
それなら,何も悩む必要がないと思うのですが,必要以上に,仲間うちの眼を気にして「過剰適応」してしまうようです。無意識のうちに,集団から浮いてしまって,いじめられることを恐れているのでしょうか?
限られた内なる集団の一部に嫌われたところで,外に生涯つきあいたい人生の師や先輩,そして仲間ができれば,何のことはないのですが,そこに目がいかないようです。
ひとつめ。実際に、ブログに出していることが原因でストーカー被害にあったという事件がありました。もちろん、みんながみんなそうなるわけではありません。しかし、そういう被害があったことを踏まえて、そういうことになったら怖いという人に、「どうやらあなたは自意識過剰なようです」って。。。「君って、全然魅力的じゃないから大丈夫だよ。」って言っているように聞こえるのは、むしろそんな風に考える私が問題ですか?
いかん、ずれてる。実際に事件があったわけです。もちろん、みんながみんな、同じ被害にあうわけではありません。しかし、一度あった以上、そしてそれが新しければ新しいほど、「模倣犯」というものもあり得るのです。そういうことも踏まえて、どうやら「ブログに過大な期待と恐れ」を持っているだけではなく,当人は意識していないかもしれませんが「自意識が過剰」なようです。
という答えは、「発生するかもしれない」という可能性を一切否定しているわけです。「そんなこと、あるはずない」と。何を根拠に?次の段落ですかね?
私が講師を務める明治大学ブログ起業論でも既に実証済みなのですが,それほど世の中は甘くありません。ネットにはあまりに多くの情報が氾濫しており,今やブロガーは星の数なのです。しかも,現代は,かのマザーテレサが嘆いたように,愛情の反対語=無関心という病がはびこっています。街中で,ちょっとやそっとの「おかしな事」をしたぐらいでは,誰も立ち止まって見てくれないでしょう。
無名の人間が普通のブログを始めてすぐに大人気となり,衆人環視にさらされるようなことは考えられません。もし,そんなに簡単なら,私もブログのアクセスを増やす苦労などしなくて済むでしょう。
さて、本当でしょうか?
鳥取砂丘に、なんだったかの文字を彫ったとブログに書いた人は、どうなりました?
これは芸能人ですが、他国の観光地に落書きしたグループは、どうなりました?
オープンにしていたとはいえ、mixi という限られたネットで、キセルしようとして見つかったけど、証拠がないから逆に駅員を恫喝してやった、という人は、どうなりました?
ディズニーランドに、高校生として入園したという人もいましたね。
テラ豚丼でしたっけ?あれ、どうなりました?
ゴキブリをフライヤーで揚げたっていうのもありましたよね。
こういった、「ちょっとおかしなこと」をした人に、誰も立ち止まりませんでしたか?ゴキブリフライは、ホント、ちょっとした事ですよね。だってそうでしょ?フライヤーに入れただけでは死なず、衣をつけてって、そこで「調子に乗って書いている」ってわかりますよね。フライヤーって、100度超えるのですよ。全身の水分が沸騰するのに生きているって、どんなですか。その辺で、「ああ、これは嘘だな。面白がって書いているだけだな」とわかるでしょう。もちろん、わかっても気持ち悪いし、そんなことはおもしろがって書くものではありません。
こういうことに関心が集まるというのは、関心がない、無関心ゆえの発言じゃありませんか?愛の反対は無関心です。しかし、無関心とは、関心を払わないことだけではありません。関心を向けても、その後に無関心になること。そのほうが、もっと恐ろしいことです。これらの「おかしなこと」をした人は、関心を向けられなかったのではなく、関心を集めました。しかし、集まったのは、ただの無関心ではなく、無関心による関心でした。
もちろん、一過性のものです。それらは、確かにフィーバー(熱に浮かされる)しました。一過性ゆえ、関心が長く続くことはありませんでした。明日、もし当事者とすれ違っても、きっとその人だとは気がつかないでしょう。
でも。当事者の心に残る傷は、そんなものですか?
これらの事件は、実名を出す、写真を出すことが、非社会的な記事を出すことの抑止力とはなりえないことを証明している、とも言えるのではないでしょうか。
この記事を書いた人は、ブログへのアクセス数が伸びていないそうですね。ただ単に、記事が面白くないからじゃないですかね。現在、ソーシャル ブックマークや、ブログリンクというものがあります。面白い記事は、そうしたもので他人が宣伝してくれます。そうすると、もともとは注目されていないサイトであっても、だれかが注目することでほかの関心を集めることができます。私も、自分のブログへのトラックバックや、リファラにより、他のブログに関心を寄せることがあります。Google Adsense によると、最近一カ月の私のブログの平均ページビューは、一日約1000です。それが、比較的多いのか少ないのか。数には、私はあまり関心がありません。でも、1000人もから見られていると思うと、私は十分怖いですね。
ふたつめ。
この記事を書いた人は、現在の日本の世情には関心を払っていないのですかね?
「知らない人にはついていかない」というのは、今の子供の常識なんですけどね。ついていかないというより、「いかのおすし」なんですけどね。その状態が正しいとは思いませんよ。記事の著者の子供時代のように、子供が大人に対して緊張しなくていい時代のほうが、私はよいと思っています。しかし、世の中、そうとも言っていられないのです。
ひとつは、日本国外の人による犯罪が増えてきたということもあります。同じように都会では、他の地域から引っ越してきた人による、地域社会の崩壊があります。もちろん、地方も同じです。若い人が減り、代わりに「老後を田舎で」と考える人が入ってくるのですが、地域社会の付き合いができるとは限りません。かくいう私も、地域社会に溶け込んでいるとはいえません。だからこそ、余計に思います。著者は、現状に関心を払っていないの?それとも、昔の幻影にしがみついているの?
現在の世情を考えること、この言葉も、無責任ではありませんか?著者はそんな幼少期の経験がある
かもしれませんが、では、ない人は?ない人に対する考察が足りていないでしょう?そんな幼少期の経験があるから、「俺はこうだ」といえます。でも、ここで「俺はこうだ」で終わっていいのでしょうか。だから、なに?「あんたはそうかもしれない。でも、俺にはないんだ。で、あんたは、そんな経験のない俺にどうしろと言っているわけ?」とならないでしょうか。このことはつまり、そして,その時々の相手の気持ちを察し,間合いを測りながらも,自分の素直な気持ちを伝えることが,
実はできていない、あるいは、面と向かって話をする時にはそれができるけど、そうでないときにはできていないということではないでしょうか。
みっつめ。
限られた内なる集団の一部に嫌われたところで,外に生涯つきあいたい人生の師や先輩,そして仲間ができれば,何のことはないのですが,そこに目がいかないようです。
ということには賛成します。しかし、やはり、ここも考えが足りていないのではないでしょうか。足りていないのは、今所属している集団がどういうものか、ということです。
今所属している集団から、すぐに離れて、新しい集団に身を移すことができるのなら、それもいいでしょう。それがそうはいかないから、集団から浮いてしまって,いじめられること
になるのではないでしょうか。ここでも事例に対する考察がされていない、あるいは、自分の意見を主張することに熱中するあまり、考えなければならないことをなおざりにしているのではないでしょうか。
実名で活動するかどうか。私は、そんなことはどうでもいいと思います。一貫した名称を使うこと。一つの名前とそこから派生するあだ名によって識別されるほうが、実名によるかどうかよりも重要だと考えます。
そもそも、名前というものは、社会において個体を識別する符号でしかありません。しかし、その識別も、完全に行われるわけではありません。私の名前を検索すると、私以外の人がたくさん出てきます。上に「あだ名」と書きました。私は、小学校時代の友人には「はなちゃん」、中学以降に付き合いのある人には「じった」で識別されます。どちらも「本名」ではありません。結婚以前の知人には「はなおか」で識別されますが、これも本名ではなくなりました。
逆に、コミュニティーにおいては「Jitta」「じった」「はなおか じった」で識別され、本名で識別されることはあり得ません。本名を知らせている MVP リードの方々さえ、「じった」で識別します。本名の書いてある名札を下げていても、「じった」です。
顔も、そんなに正確に識別できるものではありません。0歳から1歳の間には、かなり変わります。…ごめん、ふざけた。大人では変わり様は少なくなってきますが、仕事がハードになったり、病気などにより、一時的に痩せた/太ったことで印象がかなり変わります。実際、IPA の情報処理試験では、最近3ヶ月以内に撮った写真を求められます。髪型を変えるだけでも、面識のない人の目をごまかすことはできるでしょう。某、無差別殺人傷害事件の犯人が、髪を剃っていたことで警戒中の警官の目にとまらなかったことは、記憶に新しいことです。また、指名手配の似顔絵も、「このような変装をしている可能性があります」と、髪型を変えたりほくろを描いた、複数の似顔絵が描かれることが多いです。
このように、面識の薄い人との間では個体識別として意味が薄いと言っていいのではないでしょうか。しかし、長く、広く公開し続けることで、場合によっては致命的なダメージを受ける可能性が出てきます。そんなものを公開することを、無責任に勧めていいのでしょうか。
あるいは、ネット社会を一つの社会と考え、属する「社会」によって別の符号を使用する、という考え方があってもいいのではないでしょうか。両方の社会をつなぐことに意味を見いださなければ、あるいは切り離すことで安全性を確保できるなら、「オフライン」という社会と「オンライン」という社会を切り離すことに意味があると言えるのではないでしょうか。「この人にはつなぎたい」と思ったら、そこでは伝えればすむことではないでしょうか。
また、「オンラインでの活動によって生じる利益を、オフラインに存在する人間の利益とはしたくない」というような意見を、他のところで拝見しました。なるほど、そういう考え方もあるのですね。「オフラインに不利益を持ち込みたくない」という事しか思いつきませんでしたが、目を覚まさせられるご意見でした。
さて、一通り憤りを吐き出したところで、検討。
この記事、対象が見えないのです。ブログのタイトルが「企業経営に生かすブログ道」なので、「企業の経営者」や「起業を考えている人」が対象なのでしょう。学生団体LabITとか IFI ビジネススクールでの講演を元に、ってことなので、そういう人たちが相手なのね、ということで、ウェブページを訪問・・・と。
「学生と企業の、IT による架け橋」、、、なのですね(ちょ、代表挨拶が「現在準備中」って、どういうこと?!)。そこで行った話を元におこした記事ですね。じゃぁ、対象は経営者や起業を考えている人にとどまらず、全学生なのですね。じゃぁ、訂正なしにそのままいけますね。
おっと、追加記事がありますよ。
読者メールで再考した「Blog実名発信のメリットと,実名で書くべき人」(企業経営に生かす Blog 道)より:
前回ご紹介したコラムは,企業でリーダーを目指す学生や,ビジネススクールの企業派遣生に加え,私が講師を勤める明治大学商学部「ブログ起業論」の受講生を想定した贈ったメッセージなのです。
ちょwww 「後出しジャンケン」って言っていいですか?
つうか、一般公開している記事ですよね?それを、特定の人々を想定したメッセージって(^-^; ブログのページビューが上がらないのは、その辺に理由があったりするのではないですか?
もし,私が実名で写真ブログを公開していなければ,この素晴らしい写真にも出会うことがなかったのです。
いや、実名でなくても、一貫した識別子であれば出会えますからw「実名」である必要は、ほとんどないのですよ。たとえば、「眞鍋かをり」という人がいます。この人は、この名前でブログを書いており、「ブログの女王」とか言われて/名乗っていました(過去形でいいんだよね?今はしょこたんだよね?)。これ、本名ですか?違いますよ。「かをり」と「かおり」の違いだけだったかもしれないけど、本名じゃないですよ。この人は、存在しないのですか?していますよね。つまり、あらゆる仕事において、「眞鍋かをり」という識別子で統一した。そういうことでしょ?そこに本名である必要性はない。一貫した識別子であればいい、というだけ。本名である必要はない。
投稿日時 : 2008年4月25日 22:36