週刊ダイヤモンドという雑誌に、陰山メソッドでおなじみの陰山英男氏がコラムを書かれている。そこに、地理のことについて書いてあった。
某クイズ系テレビ番組で、若い芸人が日本の都道府県を知らないのを、「何でそんなこと?学校で習わんのか?それともギャグ?」と思いながら見ていたのだが、今の教科書にはそんなものは載っていないそうだ。
知識軽視の教材によって「ゆとり世代」が生まれた(週刊ダイヤモンド2008年1月12日号)より:
(「ゆとり世代」)のことを理解するためには、この世代が学校で使ってきた教材を見てみるのが手っ取り早い。
彼らが小学校の時、地理の教科内容が「暗記科目である」という理由で大幅に削減された。だから、彼らの多くは、都道府県名を学校の授業で習っていないし、大学で専攻でもしていない限り、世界の国々についての知識は無きに等しい。
つまり、日本のどこになんていう県があって、そこの県庁所在地がどこで、どんな特産品があるのか、教えてない、と。教えていないのだから、知っていないのは当たり前。バカでもギャグでもなく、素で知らなかったのか。それは失礼した。
私が小学校3年生くらいの時に、近所にマクドナルドができた。その頃のマックのおまけに、日本地図が描かれた下敷きがあった。そこには県庁所在地と、特産品、名勝などが描かれていた。それを見て、都道府県名とそれぞれの位置関係を覚えた。いま、コマーシャルで流れるマクドナルドのおまけは、何か他の商品とタイアップしたおもちゃばかりだ。学習色が強いものは、今の時代は歓迎されないのだろうか。
陰山氏はこのように続けている。
暗記科目がばっさり切り捨てられたのは、考える力を伸ばす「新しい学力観」の下では、知識の量は問題にすべきではないとされたからである。つまり「知識」と「考える力」とは、まったく別々のものだととらえられてしまったわけだが、そんなはずはないではないか。
「ゆとり」教育では、知識を詰め込むのではなく、考える力を伸ばすために、知識を詰め込む時間を削って、考える時間を設けようとした。しかし、知識は考えるために必要なものである。知識もないのに考えることはできない。
ここでは地理について、人間活動の社会科学的な土台は地理が担っているとして取り上げていたが、他の教科でも同じこと。考える力、生きる力を身につけるために、知識を削っている。はたして、そんなことが可能なのか。知識を与えず知恵をはぐくもうなど、無謀もいいところだ。知識なく、知恵は育たない。当たり前のことなのに、文部科学省の人、あるいは教育審議会だったか、ゆとり教育の導入を審議した人たちは、そのことを知らなかったのだろうか。
我々人間は、何もないところから何かを作り出すことはできない。できるのは、何かの断片と断片をつなぎ合わせ、別の形にすることだ。
このことは、全てのことに通じる。このブログを読んでくださっているのはたいていプログラム経験のある人だと思う。プログラムを考えていただきたい。我々プログラマは、新しい関数を作りはするが、それはすでにある命令を組み合わせたものに過ぎない。プロセッサが直に実行している命令にしても、そう。電子の流れを制御するに過ぎない。
アイディアにしても、何もないところには生まれない。ブルー LED などで発明した本人と会社との間で利益の分配についてもめ事が起きていた。これは、「業務がなければ発明もなかったでしょ」というのが、会社側の言い分だ。すなわち、「こんなことがあればいいのに」というアイディアの元があるから、ひらめきがあるのだ、ということ。その他、事件のための道具や資金の提供は、会社が行っている。そういうものも必要だったはずだ。
30代以上の人なら、「フレミングの左手の法則」をご存じだと思う。今の物理では、この法則は教えない。教わるのではなく、「自分で気づけ」というのだ。なぜ?この法則を見つけることが、考える力なのだそうだ。本当にそうなの?
私はこの法則を聞いたとき、「じゃぁ、右手は何か他のことに使えないかな?」と考えた。これは、考える力を延ばすことにつながらないのだろうか。
フレミングの左手の法則は教えないのに、ピタゴラスの定理は教える。右ネジの法則は教える。矛盾していないか?
知恵は、知識をどのように使おうか考えること。知識のないところに知恵は働かない。
知識を与えず知恵をつけさせる。無茶もいいところだ。
書店で、「インド式~」という本を見つけた。パラパラとめくってみると、足し算をするときにはそれぞれの桁で、10になる組み合わせを探して消去していけばよい、と書いてある。
そんなことは小学校のうちに気がついた。今の子どもは気がつかないとでもいうのか。
はたして、そうかもしれない。今の学習指導要領では、反復練習をさせないらしい。公文式などはその逆で、徹底的に反復練習をさせている。なぜか。九九にその秘密がある。
例えば「8×4」を、「8+8+8+8」と計算している人はいないはずだ。「はっしさんじゅうろくさんじゅうに」と、ひとつの言葉として覚えていると思う。どうやって?繰り返し、「はちいちがはち。はちにじゅうろく。はっさんにじゅうし。...」と、唱えたのではないだろうか。そう。「8+9」を、「8から1引いて7、9に1足して10にして、10と7で17」と計算するより、「はちくじゅうひち」と覚えてしまえば、計算が速くできるようになる。九九と重なるのでそんな覚え方はしないが、まぁ、そういうことだ。繰り返し計算しているうちに、「8+9=17」と覚えてしまう。すると、計算する必要はない。覚えているものを書き写すだけだ。
同じことが、プログラムの世界でもいえる。多数の仕事をこなした人は、「俺フレームワーク」を持っている。新しい仕事であっても、過去の似た事例と関連づけて、かなりの精度を持った当たりをつけてしまう。このフレームワークのできの良さや当たり付けの精度は、こなした仕事の数に影響されていると言っていいだろう。
今の義務教育では、これをしない。電卓があるから計算なんて必要ないよね、と、反復練習を切り捨ててしまった。
違うでしょ。反復練習をすることで、「要領よくやる」コツを会得するのだ。力の入れ所、抜き所を学ぶのだ。多くの事例をこなすことで、経験として、知恵の元となる知識を蓄積するのだ。
糧を与えることなく働きを要求する。無理なことをいうものだ。
投稿日時 : 2008年1月13日 22:21