阿久根市長「腐った枝、刈らないと」 障害者の記述巡り(朝日新聞社)より:
「この間の障害者の件で、差別と言われるが、ああいう視点は私にはわからない。命は一つだと思っている。人間も動物も地球も。そういう感覚がある。なんでああいう言い方するのか。考えていくと、みなさんは生と死をわけている。今までたくさんの人が生まれて死んだおかげでみなさんがいる。みなさんもいずれ死ぬ。死と生が一体」
「社会は木を育てるようにしないといけない。木の枝の先くされば切り落とす。そうしないといけない。全体として活力ある状態に。ゆうべ、日テレで『アラームにかこまれた命』というのをやっていた。NICUで未熟児で障害児が生まれてしまった。それをどんなことしても生かす医療システムがある。のどにも胃にも穴をあけて、24時間見張る。栄養はチューブで入れる。そこで2年間。病院の扱いがひどくて、お母さんが家につれて帰る。お母さんは眠れない。2年半も。そういうことやっていいのか。それを止めるのは殺人となる。私のところに今回の件でメールがきた。こういう状態の人から。疲れて寝てしまった間に死んでしまったと。そういうのがけっこうある」
「要は、社会をつくるということは、命の部分にふみこまないと駄目。表現としてきびしいが刈り込む作業しないと全体が死ぬ。壊死(えし)した足は切り取らないと。それで全体を生き残らせる。誰も踏み込まないから、命が失われつつある。それが今の政治、社会の現実。情緒で社会をつくることはできない」
微妙な部分なんで、踏み込んで良いのか。。。
日本国憲法を読んでみた。第3章第11条に、こうある。
「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
」
これは、よく取り上げられる。しかし、第12条は、どうだろう?
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
」
何度読んでも、こう書いてある。この権利は、国民の不断の努力によって保持しなければならない。国民は、これを濫用してはならない。国民は、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任がある。
大事なので、もう一度書く。国民に与えられている自由と権利は、国民の努力よって保持されなければならない。濫用してはならず、公共の福祉のために利用する責任を負う。
続いて13条には、こうある。
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
」
よく読んで欲しい。国民の権利は、「公共の福祉に反しない限り」という但し書きが付いて、最大限に尊重される。すなわち、個人の権利より公共の福祉が優先されると、日本国憲法は定めている、といえる。
そうであるなら。“公共の福祉”とはなんだろう?「福祉」は、「国家によって国民に等しく保障されるべき安定した生活および社会環境。(明鏡国語辞典)」だそうだ。「国家によって保障される」のだそうだ。だとすると、保障される前提として、国家、または地域社会が存在していなければならない。
では。国家または地域社会の存続と、個人の権利。どちらが優先されるのだろうか。
そのように考えると、ブログ市長の言葉は、「個人の権利を守るために、市政の存続を優先します」と、当たり前のことを言っているのではなかろうか。言葉の選び方は、悪いかもしれないけど。
投稿日時 : 2010年1月28日 22:34