コメント書いていて、なんか、コメントにするのがもったいなくなってきた(^-^;
ネタもと→人が人を育てられるか(地方からの戯言)より:
勉強会を開いてみたが、反応がない、、、とのこと。「反応してくれるためにはどうすればいいか」を考える前に、「何故反応してくれないのか」を考えてみたいと思います。
人の前に立って話をする。または、人の中で発言する。実際、とても怖いです。何が、または何故、怖いのでしょう?
小学校で、先生に「○×さん」と当てられます。そして、間違えてしまった。みんなに笑われた。。。なんて事があったら、「間違えて、笑われたらどうしよう」と思うかもしれませんね。では、もし、間違えても、みんなが笑わなかったら?逆に、何故そのような間違いをしてしまったのか、みんなで考えて、より深く理解することが出来た経験があったら、どうでしょう?間違えることを恐れないのではないでしょうか。
いま、人前で話をするのを怖いと感じる理由のひとつにつて、分析しました。他にあるでしょうか。
今の日本の教育は、○か×かで判断することが多くあります。私が疑問に思っていたことは、物語を読んで主人公の気持ちを想像しよう、というところです。んなもん、本人ちゃうからわかるわけ無いやん!と、思っていました。「火垂るの墓」という物語があります。スタジオ ジブリが映画化したので、ご存知の方も多いと思います。これ、中学校だったかな?教科書に載っていました。ものすごく読みにくいのです。句読点なしに教科書の半分くらいまで文が続きます。読むのがすごく嫌いでした。なんでこんな話を出すか?→ウィキペディア、「その他」のところ。
娘の学校での宿題の「火垂るの墓の作者は、どういう気持ちでこの物語を書いたでしょうか」という問いに対し、「締め切りに追われ、ヒィヒィ言いながら書いた」と答えたと、テレビ番組で発言した。
誰が想像するよ、こんな答え。。。
私は、教科書には、「作品の背景」にある、このあたりだけが載っていたように記憶しています。
自分が面倒をみなくてはならなくなった下の妹のことはどちらかといえば疎ましく感じていたと認めており、泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあったという。
ここには下の妹へのせめてもの贖罪と鎮魂の思いを込めてこの作品を著したのである。
と書いてありますが、私が覚えているのは「そんな気持ちは全くない」という言葉なんだよなぁ。
と、話がずれた。なんだっけ。えっと、そう、「質問者が想定するマル以外のところに、思わぬ真実が隠れているかもしれない」ということなんです。間違いは、実は間違っていないかもしれない。あるいは、何故間違えたのかを追求することで、より深く理解することが出来る。そう思いませんか?
質問をすることで、「あいつ、こんなことも知らんのやって」と、馬鹿にされた経験をお持ちの方も、いらっしゃると思います。わからないことをわからないというのは、馬鹿にされるようなことなのでしょうか。
わんくま勉強会は、ストリームを公開していますし、ビデオも公開しています。ビデオを見ていると、「オイオイ質問者さん、あんたならその答え知ってるでしょ!」と突っ込みたくなる質問者さんがいます。彼らの質問している内容をよく考えてみると、理解するのが難しいところ、誤解しそうなところなんですね。わかっていると思っていることが、実は間違えて覚えていることもあります。質問に対して「こんなことも知らないのか」と馬鹿にせず、一緒に、より深く理解する一助とする。ステキだと思いませんか?
ネタ元で、「複数の答えを用意する」「驚く」としているのは、上記に相当します。正解が複数あることで、ただひとつのマルに慣れた頭を解放します。「ああ、それも正解ですね」と答えることで、用意された答え以外の答えがあることを体感してもらう。それが狙いです。
「しゃべってもいいんだとわかるまで時間がかかる」というのは、最初の最初で滑ったからです→わんくま同盟 大阪勉強会 #1。「設計という作業~どのように、どこまで設計するのか~」のシート3枚目がそれです。最初の勉強会の、最初のセッションの、本当に冒頭でやって、滑ったという...
「やいJitta! テメー、掲示板では「自分で調べろ」と言っているじゃないか。それなのにここでは「質問しよう、発言しよう」なんて、矛盾してるじゃないか。」と思われた方、手を挙げて・・・も見えないよ~ん。
答えは簡単。ウェブの向こうとこっちでのやりとりは、インタラクティブ性が低いからです。また、私がそうしろと書くのは、「インタラクティブ性が高いところで説明して、足りないところを補え」ということです。勉強会は、その場で足りないところを補足することが出来ます。つまり「ウェブのこっち側にみんながいる」状態なのです。まったく矛盾していません。
で、ここから追加。
私はやってませんが(ぉぃ)、リハーサルでは録音をしておき、自分の声を知るのがいいと思います。自分の声ぐらい知っているって?本当でしょうか?自分が話すときに聞こえている声は、頭蓋骨の中で反響した声です。耳を塞いでしゃべってみて下さい。また違った声になるはずです。他の人が聞いている声は、あなたが聞いている自分の声とは違うのです。他の人が自分の声をどのように聞いているか。客観的に知ることで、他の人にとって耳あたりのよい声を探ることが出来ます。
これを実践するのはとても難しいのですが、大事な話ほど、小さな声で話します。小さいと聞こえないって?ええ、聞こえないから、どうします?集中しませんか?これは、子どもが通う保育園で実践していることです。最初に「はい、静かにして」といった後、「実はね、・・・」と、小さい声で話します。小学校就学前の子どもが、サッと集中するんですよ。大人がやってやれないことはないはず。
スライドを利用する場合、事前配布をしない、あるいは、事前配布用の資料と、実際に使う資料の2つを用意します。先に配ってしまうと、「仕掛け」が丸わかりなんですよね。それに、読む事に集中して、人の話を聞きやしない。しかし、事前資料と実際の資料が違っていれば、話に集中します。また、違っているところを書き留めようとします。目、手、耳という3感からの情報は、より強く印象づけるでしょう。
カラフルな資料は、見る人を楽しませてくれます。でも、何処に集中していいのか、わからなくします。重要なことが書いてあるところは、重要なところだけに色を使いましょう。
人は、自分の身に迫る危険に対して敏感です。危険だと感じるものについては、必ず注意を払います。では、何に危険を感じるでしょうか。動くもの、です。止まっているものは、自分に危険を及ぼさないのです。でも、動いているものは、自分に危険を及ぼすかもしれない。だから注意を払い、回避行動をとる必要があるかどうかを判断します。・・・ということは、ですよ。注目して欲しいところは、動かせばいい、動いていって指し示せばいい、ということです。
投稿日時 : 2009年9月14日 11:21