「へぇ~!」と感心するのではなく、「え~っ??」と、疑問を投げてみたい。
通信プラットフォーム研究会 傍聴録(高木浩光@自宅の日記)より:
グーグル(藤田一夫オブザーバー)
最後にプライバシーについて。確かに問題があるかもしれないが、日本のプライバシーに対する感覚は、アメリカ、イギリスとでは違うのではないか。日本では、マンションとかはまた違うかもしれないが、一戸建てでは名前を表札に書いている。名前まで。わざわざ自分の名前を公道に出しているわけだから、プライバシーなんて気にしていない。(会場苦笑。)それが、ネットの世界でだけ気にするというのはうーんどうかなと思う。(会場冷笑。)これは最近のフィルタリングのことを彷彿させる。有害情報、有害情報と声高に言われるが、たしかにそういうところもあるが、人によって有害無害と価値観が違うのだから、一人の学者さん、偉い学者さんの倫理観で縛るというやり方というのは、いかがなものかなと考えている。
グーグルと書いているけど、グーグル株式会社ですよね。肩書きがないけど、どういう立場の人が、どういう立場で出席しているんだろう?
この発言をした人は、どういうところに住んでいるのだろう?私の家の周りで、姓名を表札にあげているのは、古い家だけです。とはいえ、40年ほど前に作られた、比較的新しい住宅地なんだけど。
最近の家は、姓しかあげていない方が多いでしょう。特に、家族全員の名前を挙げていることは、まずないと言っていいでしょう。引っ越しをして、自分の家の表札を作るために、他の家の表札がどんなものか、興味津々見て回ったので、間違いありません。少なくとも私の行動範囲内では、古い家では、姓名、住所があがっています。しかし、新しい家では、姓だけ。あるいは、番地と姓だけになっています。
倫理観なんてものは、時代とともに変わっています。もちろん、プライバシーに対する感覚も、変わっています。
最近では、温泉は流行るが、町のお風呂屋さんは流行りません。なぜ?プライバシーの問題が、一面にあると言えるでしょう。(プライバシーなのか?)
新しいアパートでは、昔ほど簡単には、音は響きません。迷惑という面もありますが、プライバシーという面もあります。
はてなブックマークに、表札についてのリンクがありました→岡田憲治の「野次馬住宅時評」
江戸の頃は自己表現として存在していた表札、そして表札もどきのもの、それが明治になると庶民を管理し監視する道具となっていった。
玄関を見れば、徴兵すべき人がわかること。それが明治からの表札というわけですね。それが戦時まで続き、戦後は「なぜ」が失われたけれど、慣例として残っていた、と。
なんていうか、「なぜ」を知るって、大切ですよね。「変化する」ってことを受け入れることも、大切ですよね。
たびたび発言されている、楠氏によるエントリにも、リンクしとこっと→通信プラットフォームの安全な解放へ向けて(雑種路線でいこう)
投稿日時 : 2008年8月18日 22:36