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「数学と算数は本質的に何が違うのか」
私が問題にしているのは、言わば
「ソフトウエア言語としてのVBとその問題」
であり、「算数と数学」はその問題の本質を例示する為の手段に過ぎません。
#「算数と数学」の例なら簡単に分かって貰えると考えた訳です。
トラックバック:哲学は言葉遊びか
スレッド内で 数学と算数論のバトルがあるのですが, 対軸の方が根拠となるURLを提示されてます。
言葉を哲学体系で考えると,こういう論理になるのかな.......URL主さんには申し訳ないですが、理解不能でした。
ognacには単に【言葉を字面だけで弄繰り回して遊んでいる】としか感じませんでした。哲学要素/文学要素が欠落しているのかもしれません。
Ognacさんに同感。
さて、なぜ理解不能なのか、考えてみました。
ちと、引用としては長いが、見比べるのは面倒なので、引用。
上記の式は数学において正しいとされるでしょう。さて、ここで、具体的にしか考えられない人がいるとしましょう。具体的にしか考えられない彼は、この式をどのように考えるでしょうか。彼にそって、計算してみましょう。
まず、掛け算からです。
・掛け算:1×2=2
具体的しか考えれない彼は、上記の式を1個のリンゴが倍になって、2個になると考えるでしょう。
次に割り算です。
・割り算:1÷1/2=2
この式を具体的にしか考えられない彼は、1個のリンゴを半分に切ると、半分のリンゴが2個できると考えるでしょう。つまり半分のリンゴが2個で、リンゴ1個分にしかなりません。
つまり、彼にとっては、
リンゴ2個=リンゴ1個
となってしまうわけです。
リンゴ2個とリンゴ1個がイコールになるという数学の考えは、具体的にしか考えられない彼には納得できるはずがありません。
私たちは日常の中で、具体的なリンゴなどと抽象的な数字を対応させて考えています。たとえば、リンゴ1個が3倍になればリンゴ3個になるというようにです。ですが、こうした計算は決して間違いないのでしょうか。私たちも知らずに、具体的にしか考えられない彼のようなことをしていないということを、証明することは可能でしょうか。
まず・・・・・・「具体的にしか考えられない」はずなのに、「1÷1/2=2」という式から「リンゴ1個を半分に切ると、半分のリンゴが2個出来る」と具体化できている、抽象的な式を具体的事象に置き換えられるほど理解している、というところが変!!
「リンゴ1個が3倍になればリンゴ3個になる」というのも、変。「3倍の大きさのリンゴになる」とも言えなくはありません。
「半分に切るだけでは1/2を解決しただけ」というところも、見逃せません。
つまり・・・・・・かけ算&わり算の理解も変!!
足し算&引き算では、作用される数、作用する数、結果の数の“単位”がすべて同じです。
「リンゴ2個にリンゴ1個を足すと、リンゴが3個になる」
ここに出てくる数はすべて、「リンゴの個数」を表しています。
ところが、かけ算&わり算では、「単位」が異なります。
「リンゴが2個ずつ盛ってあるかごが2つあると、リンゴは全部でいくつですか?」
「リンゴが6個あります。2つずつかごに盛ると、かごはいくつ必要ですか?」
このように、「かご」という、リンゴではないものが出てきます。かごを使わなくても、「リンゴの山」とか、「持っている人」という、「リンゴの個数」ではない数が出てきます。
かけ算は、単に物事を増やすのではありません。わり算で求まるのはリンゴの数ではなく、「いくつに分けられるか」なのです。ここは「リンゴ1個が3倍に増えたら、3個になる」「リンゴ1個を、半分(1/2)ずつで数えたら(÷)、2個分になる」というように具体化しなければなりません。
また、具体的にしか考えられないなら、わり算で求まった「数」に対する「単位」も同時に考えているはずで、そうすると、
「リンゴ2個とリンゴ1個が、どうして等しいのか」
ではなく、
「切っていないリンゴ2個(2個/リンゴ1個)と、半分のリンゴ2個(2個/リンゴ半分)を、どうして比較できるのか」
わかりやすくすると、
「リンゴ“2個”と、半分に切ったリンゴが盛ってある皿“2枚”を、どうして比較できるのか」
という疑問になるでしょう。
もちろん、先生に詰め寄るのは同じなのですが。
しかし、ここから、『実は算数と数学の本質的な違いを学校教育が、まったく教えてこなかったという問題点』を導くのは、ちょっと無理があると思います。
私には小学1年生の子供がいるのですが、同じ年頃のお子さんをお持ちの方は、小学校の算数の本を見てみてください。そうでない方は、思い出してみてください。
確かに、算数の最初では、おはじきの数、チューリップの本数など、具体的なものを数えます。
しかし、ある程度まで進むと、数字しか出てきません。そして、ヒントとして、ドーナッツやあめ玉の絵が描いてあります。
つまり、「数」そのものがすでに抽象的なものなので、「数」をビー玉やすずめという、具体的な事象の数を表すための抽象的な記号として理解することが出来ているわけです。
そして、抽象的な理解が出来なければ、かけ算やわり算は理解できないのです。
なぜなら、かけ算やわり算では、等号の右辺と左辺で数が表している「具体的な事象」が変わっており、数が抽象的であることを理解していないと、「なぜ比較できるのか?なにが同じなのか?」という疑問が発生するからです。
すなわち。「算数の領域」とされているかけ算わり算は、「数学の領域」とされている「関係論的概念」が無ければすでに理解できないのです。
かけ算は、単に増えるのではありません。同じ個数の組が何組か集まった後、全体を数え直した結果です。かけられる数に対してかける数がどの様に関係するのか、正しく把握していないとかけ算は出来ません。
わり算は、割られる数を割る数で等しく分配した時に、いくつに分配できるのか、ということです。割られる数と割る数の関係が正しく把握できていないと、何のための計算なのか理解できません。
存在論から関係論へのパラダイム シフトは、算数の中ですでに発生しており、算数と数学の本質的な違いとは言えません。
では、かけ算わり算が関係論的概念とされているのでしょうか?いいえ。ページの先頭で、次のように書かれています。
算数で以下の式があります。
・掛け算:1×2=2
・割り算:1÷1/2=2
したがって、1×2=1÷1/2
では、学校では「数は抽象的な概念」ということを教えていないでしょうか。
明確には、教えていません。しかし、私はここで、数を表現するときに「おはじきの数」「チューリップの本数」「ドーナッツ(の個数)」「あめ玉(の個数)」「ビー玉(の個数)」「すずめ(の匹数)」と、対象をコロコロ変えています。このように、「同じ数でも表されるものが違う」ことを示しました。こういう実体験により、「数は抽象的なものである」ということを学んでいる、といえるでしょう。
後半については、何を言いたいのか、さっぱりわからん。っつうか、後半を導くための前半が崩れたので、後半は無意味。
関係論なのは関数であって、算数と数学じゃないでしょ。→関数とは?
おそらく。自分が理解できなかったことを「存在論的概念と関係論的概念の違い」ととらえた。自分が理解できなかったのは、中学で「変数(xやy)」が出てきてからだと分析した。ここまでいい。
この後、小学校では「算数」だった教科が、中学校では「数学」となっていた。だから、「算数」と「数学」は、「存在論的概念」と「関係論的概念」が違うのだ、となった。というところか?
「主張されるもの」としているのが、x○y=zの、yだけというのが、何とも興味深い。いったい、a○b○c○d○e=fとなったら、主張されるものは何なのだろう?
おそらく、「関数」を理解できていないのだと思う。
5+2=7
は、その関係論によって、
F(5)=7
というように、概念化としての関数へと変貌します。数学においては、このF(x)という関数のFこそが主張されるのです。
多くの生徒が、こうしたF(x)関数がでてきた途端、授業についていけなくなったのではないでしょうか。私もそうでした。
F(5)=7 となる関数 F は、複数存在します。
F(x) = x + 2
F(x) = celling(x / 2) + 5
celling(x) = x より大きい最小の整数
F(x) = x + floor(x / 2)
floor(x) = x より小さい最大の整数
このように、F は +2 以外に複数存在します。したがって、『F(x)という関数のFこそが主張される』とは言えても、『”こうした計算を成立たせる2”こそが主張されているのです。』というのは、ちょっと無理があるでしょう。関数として表すなら、+2 は反って消えてしまうのですから。
そして。これ、小学校1年でも、すでにやっています。
進研ゼミの、チャレンジ1年生ってのを購入しているのですが、そこに、こんな問題が出ています。
□の中には、どんな数字が入るかな?前後の数字から規則を見つけてみよう。
1 2 3 4 □ 5 6
2 4 6 □ 10 12 14
1 2 4 8 □ 32 64
問題が求めているのは□に入る数ですが、その為には規則、すなわち、1番目、2番目、3番目という序数に対して作用する関数 F を求めなければなりません。いえ、正確には、1番目の2番目の間、2番目と3番目の間という序数に対する関数 F ですが。
このように、明確には「関係論」を教えていませんが、算数の段階で、体験的に学習させています。
私が小学校5年、6年の時の担任は、面白い人でした。一番印象に残っているのは、5年生最初の給食のことです。その日のおかずは、みんなが好きな焼きそばでした。3人ほどが、さっさと自分の分を食べてしまい、残っている分を欲しいだけとりました。
それを見た先生の顔色が変わりました。スッと立って3人のところへ行くと、あっという間に張り倒しました。
「おまえら、自分さえ良ければそれでええんか!?他にも欲しいもんがおるかもしれんとか、考えられへんのか!!」
それ以来、クラスでは必ず「欲しい人いますか?」と尋ね、その人数で均等に分けることになりました。
閑話休
その担任は、勉強においては皆を平等に扱いませんでした。いや。本当の平等に扱ったのかもしれません。
成績によって4つほどのランクにわけ、それぞれのランクによって与えられる宿題が異なりました。一番上のランクは『応用時代』という問題集が渡され、「好きにやっとれ」。一番下のランクは、基礎的な計算問題を徹底的にやらされました。
『応用時代』ご存じですか?応用問題だけを集めた問題集です。
数学と算数の関係って、実はこれじゃないでしょうか。
鶴亀算や電車のすれ違い、鉄橋の長さと電車の速度の関係、どれも x, y を使って解けば、すぐに解けるのです。しかし、そうしなくても解ける。そして、そうしない方が、様々な考える力を必要とされます。
文章を読み解く力、必要な数値を拾い上げる力、それぞれの数値の関係を見抜く力、そういった、基本的な力があって、それらを応用して、やっと解ける問題です。
VB の言語仕様における問題も、具体的だの抽象的だのではなく、こういうことではないでしょうか。
コンピュータによってプログラムがどのように理解され、なぜ、望みの結果をもたらしてくれるのか。
VB をはじめ、今の開発環境は、そういった基本を知らなくてもプログラムを作れ、アプリケーションとして動作してしまいます。
逆に。その開発環境でないと作れない、というような言語とバージョンに特化したプログラマを作り出してしまっています。
しかし、これは抽象的な考え方ができなければどうだという話ではありません。基礎の欠落です。
小学校での恩師は、生徒それぞれの能力を見抜き、それぞれの能力にあった勉強方法をするよう、指導してくださいました。
今、システムエンジニアに求められているのも、自分の能力にあった勉強方法を探し、実践することなのかもしれません。
投稿日時 : 2006年9月29日 23:17