凪瀬さんのエントリー:コメントの種類
http://blogs.wankuma.com/nagise/archive/2007/10/16/102250.aspx
の中で、レ点型コメントの話がでてきます。
記事の話とはワープするのてすが、レ点から漢文の返り点/戻り点の話を思い出し、ボーッと妄想に耽ってました。
そもそも返り点や戻り点は知識人が、「教養のない人のために読みやすいようにガイドラインをつけて上げたのよ」という見下し視線の置き土産だそうです。
知識人は漢文そのものを解するもので、平仮名、カタカナは女、子供の為に作られたものだとも言われ続けていたようです。
Ognacはこのような考えは否定します。
漢文が素読できるのが教養とは思えません。読めるに越したことはないですが。
英語も読める(しゃべれる)に越したことはないですが、英語が使えることと教養があることとは直結しません。
解りにくい単語や漢字言葉でしゃべって煙に巻くより、易しい言葉で説明できる人の方が数倍教養があります。
難しいことを易しく説明するのは難しいことです。逆に難しい言葉で誤魔化すの簡単です。
難しい単語を知っても、本質を知らないと知った事にはなりません。ところが単語だけ知っていて、得意げ話をする人がいたりするので閉口します。
昔は国際語が漢文(?)だったので漢文に秀でた人が知識人として扱われたのでしょう。しかし漢文は得意でも、専門知識に欠けた人も居た筈です。その人たちの待遇はどうだったのでしょう。知りたいですね。
英会話ができても技術知識がないと技術者同士の通訳はできません。われわれの業界では、通訳があてにならないときは、プログラム言語で会話ができることもあるので、救われたりしますが。
英語に堪能というだけで知識人するなら昔の漢文が英語になっただけで本質は変わっていない気がします。