ネタ元 :
http://blogs.wankuma.com/episteme/archive/2008/01/05/116063.aspx育成とは「自立できるようにする」のが目的ですよね。結果より過程が重要だと言われる所以でもあります。
問題解決自体は二の次です。子供の宿題を親が実装するのはだめです。下手でもなんでも子供が実装することに意味がある。
飢えている人々に魚を与えずに、魚の釣り方を指導する話は有名ですね。
ここまでは同意を得られると思います。
実社会ではどうでしょう。過程より結果が重要なのですが。過程を不問にするのはダメだと思ってます。
歪んだ指導をしている上位職の人を見かけることが有ります。
「問題に遭遇したとき、15分考えて解決しないときは人に聞け。考える時間が勿体無い」と教育された開発者を見かけます。
自力解決の技術より要領よく人から聞きだす技術を修得している人になったりします。
勿論、個人の知識の量は小さいので知っている人を活用するのは良い事です。「これこれをこのように調べたが解りません。教えてください」と言えば、応対して頂けます。
そうならないで俗に言う「教えて君」になるのは何故だろうと思っていたのですが、
ネタ元の親や前出の開発者の論理思考では、「調べること」 と「人に聞く」ことは同価値だと認識してそうです。
同価値だから、「人に聞く」ことも「調べたこと」になるので、われわれが「調べてから聴きに来い」と一蹴しても、一蹴された意味が理解不能なのではないでしょうか。
雛形がないと開発できない技術者に通じる所がある気がします。
非自立開発者を自立させるのは可能なのだろうか。それとも自立できない人は開発者に不向きなのだろうか。
私が自立してないのがバレルのでこれ以上は言うまい...orz。 不明点は教えて下さいね。wwww (矛盾してないつもり)