Mr.Tです、こんにちは。
#今回は、中二病にかかってみました。
#だから、色もなんか、ヘンですね。
眼鏡属性やら眼鏡っ娘やら、狭い世間は騒がしいわけですが、そもそもどうして眼鏡なのか、
という点について、考えてみたことはあるでしょうか?
...あるでしょう?
...あるに決まっています。世界は眼鏡で回っています。
何しろ、パートナーで、コンタクトをかけていた人を、わざと眼鏡に変えさせた人さえいるのです。
眼鏡をかけたら五割り増し、という言葉がありますが(今、私がつくった)、眼鏡というのは、
それだけ魅力があるようです。
しかし、なぜそんなものが、こうも騒がれるのでしょうか?
============== 眼鏡は萌える ==============
眼鏡萌え、という場合、眼鏡の形や色などには確かに着目するケースはありますが、
それは人がかけているときに励起される情動であって、それが顔から外され、
人から遠ざけられた時には効力をうしなっていることに気がつきませんか。
眼鏡とは、もともと視力端正のためのもので、そこには美的、詩的なものがくっつくもの
ではないはずです。
眼鏡が現在のように一般的なファッションの一部ではなかったころは、逆にマイナスの
イメージさえ持っていました。
#コンタクト萌え、とは云わないだろう。言ってもいいが、確実にマイノリティだ
眼鏡萌えというのは、「眼鏡をかけている顔、姿、雰囲気」が萌えなのであって、基本、
眼鏡そのものはたんなる眼鏡でしかないのです。むろん、その傾倒の度がすぎると、
眼鏡そのものから情動を動かされてしまうケースもないとはいいきれません。
つまり、
「こ、この赤いつる....古風なガラス製のレンズだ....ハァハァ....w」
という状態でしょうか。
#ま、立派に道から外れています。
そう、私たちが感じるその、「萌え」とかいっちゃってるその美的、詩的な感覚は人について
いるものだからです。
============== 眼鏡は人にくっつく ==============
眼鏡をかける人というのは、基本的に目が悪いわけです。では、なぜ悪くなったのか。
最近はすっかり日常に組み込まれてしまったようなゲームのせいかもしれません。
ただ、インベーダーやブロック崩しから端を発するゲームが日々怒涛のように押し寄せて、
来る日も来る日もゲームをしていた世代であったとしても、眼鏡というのは昔からある種、
厳格なイメージを持ったままでした。
勉強に励み、難しい本を読み、小難しい話をする、考えるときの癖は目を細める...続に云う
古臭いパターン化された優等生のイメージを引きずっています。
そこから、多少逸脱して、少年は大人に、少女は女になったとしても、ゲームのような音と
映像で固められた遊戯とは無縁の世界で、本と鉛筆と味気のない大学ノート、古書に囲まれ、
苦いコーヒーと一冊の単行本...そういった落ち着いた、どことなくセピア色の大人の世界に
組み込まれていたのです。
そこで、眼鏡というのは、まだ何も知らぬ他の世界から来た人に、こういう世界を見せるわけです。
眼鏡を外す
そう、眼鏡は、外された時にこそ、効力が最大限に発揮されるのです。
向き合う相手と、自分と間にある眼鏡は「内」と「外」をつなぐ結線です。内には、
知識と洞察、理性と悟性が包み込まれているにも関わらず、あえてその繋ぎを外し、ストレートに
相手と向き合うことが、眼鏡を外す行為を神聖化した言い方になるかと思います。
そして、目を合わせた瞬間、そこにうまれる現実感との段差、いわゆる「ギャップを抱えた人」
こそ、「萌え」の対象となるべきものです。
だから、萌えるのは、勉強できる子が急に眼鏡を外して、その一歩を踏み出した時なのです。
#その後、眼鏡を捨ててしまったに人は、もう萌えられない。
スイーツ(笑)だろうが、ビッチ(笑)だろうが、眼鏡をかけたときに萌えは始まり、
そのまま「いつ外されるのかわからない」状態を続けているからこそ、じらされる身としては
「ずっと萌えっぱなし」になる。
いつしか、現実に埋もれ日々の生活に流されて生きようと、眼鏡を外すことで世界は変わると
信じられているのだ。
ふとしたことで外された眼鏡の奥にあるものを、確かめてみたくなる。
サイハイだと? ニーソックス? そんな、絶対領域など、及びもつかぬ!
それらは全て二義的な飾りだ!
#だからといって、十分条件にならないかというと、そういうわけでもない
さあ、眼鏡をかけろ!