昔、ソフトウェアは、ハードウェアの付属品でした。付属品なので、値段なんてありません。それは、無限の無劣化コピー、目に見えない、資源を消費していない、などのことが理由としてあると思います。
そこに、「帝国」とも揶揄される、マイクロソフトが、「ライセンス(使用する権利)を販売する」という形で殴り込んできました。ソフトウェアを「もの」として販売するのではなく、「使用する権利」を販売するのです。
この方法は、成功したように見えました。それまで「付属品」だったソフトウェアに、価格が設定され、そしてソフトウェアにお金を払おうという流れもできてきました。しかし、見えただけでした。ライセンス条項をまじめに読む人がほとんどいなかったため、「もの」を買っているという意識は、消えることはありませんでした。そして、広義の「ソフトウェア」全般にわたって、「もの」という意識は消えませんでした。
ここで「広義のソフトウェア」というのは、雑誌や新聞、漫画、小説も含めた「文書」、「音楽」、「コンピュータ用のプログラム」など、使用しても消費されないものです。以後、「広義のソフトウェア」を、単に「ソフトウェア」とします。
そう。ソフトウェアは、どんなに使ってもなくなりません。
ただし、20年ほど前までは、ソフトウェアも、なくなるものがありました。しかしそれは、ソフトウェア自体がなくなるのではなく、ソフトウェアがプリントされている「メディア」が、消費されていたのでした。レコードは、何回も針を落とすことで溝が平坦になり、音が消えていきます。テープは、磁気が薄れます。紙は、紙やインクが劣化して色褪せたりぼろぼろになったりします。これらは、ソフトウェアが消費されているのではなく、ソフトウェアをプリントした媒体が消費されているのです。
しかし、ソフトウェアがそうした消費されるメディアに載っているため、ソフトウェアそのものが「もの」として扱われました。つまり、レンタルだとか、中古売買です。自動車などのハードウェアは、使用することによってなくなっていきます。また、いつでも必要というわけではないものがあります。ハードウェアにとって、レンタルや中古売買というものは、古くからありました。そして、「もの」として扱われたソフトウェアもまた、レンタルや中古売買が行われるようになりました。
ところで、ここで、ちょっと考えていただきたいのです。消費されないものであるソフトウェアと、消費されるものであるハードウェアを、同じように扱ってもよいのか、と。
ソフトウェアは、主に情報、知識として「蓄え」られます。書を読んでえられるもの、音を聞いてえられるものは、感情となったり、知識となったり、情報として働きます。しかし、知識となったからといって何かが消費(なくなる)わけではありません。ソフトウェアは、元のまま存在しています。
つまり、使用した後であっても、劣化なしに存在しています。これは、ハードウェアでは(劣化の程度はあるにしろ)あり得ないことです。
そして、容易にコピーできる可能性があります。
たとえば、イチゴ。野菜に分類されてスーパーなどで販売されている「イチゴ」は、ハードウェアです。しかし、「イチゴの品種」は、ソフトウェアです。イチゴの個体をコピーすることはできませんが、元の「苗」が手に入れば、コピーする(育てて別の苗を作る)ことは可能です。
ここで働くのが、「著作権法」です。オリジナルを作った人に、独占的な権利があることを認め、保護することが目的です。レコードやビデオのレンタル、ゲームソフトのレンタルなどで、取り上げられましたね。また、Winny の時も、「著作権法に違反すること」を助長することを目的として作成されたことが、逮捕の理由でした。
さて、ここからが、わからないところです。
私たちは、何に対して、価値をもうけるのでしょう?
私は、ソフトウェアを作ることを仕事にしています。なので、同じ仕事をしている人に対して、敬意を持っています。私が行うべき仕事を楽にしてくれるソフトウェアに対して、お金を払うことに抵抗がありません。ただし、財布の事情がありますので、一定金額以上になると、二の足を踏みますが。
そんな私は、ソフトウェア作者が、ソフトウェアを無料で提供されることを要求することが、理解できません。それは、自分の作品も、無料でよいということでしょうか。ここで、「作品」というのは、仕事上の成果物を含みます。そう、仕事もただ働きでよい、とお考えなのでしょうか。
もちろん、安く良いものが手にはいるなら、それに越したことはありません。そのことを否定するわけではありません。
ソフトウェアの「価値」って、いったい何なのでしょう?
投稿日時 : 2008年9月24日 21:25