ゲームを認めたくない人を中心に、「ゲームのやり過ぎ=短絡的になる」という意見を発信していらっしゃるようです。
ゲームが好きな人を中心に、「んなことあるかい!(笑)」という意見を発信していらっしゃるようです。
私は、どっちでもかまいません。でも、ゲームを含めた「メディア」に、人の思考や時には行動に影響を与える力があると思います。
具体的な例を挙げましょう。これ、このエントリです。
様々な意見が載せられているエントリという「メディア」を見て、「私はこう思う」という意見を表明させる行動に導いています。これを、「影響がなかった」と言えるでしょうか。
どうも、ゲームを認めたくないない人は、ゲームとメディアを分けて考えているようです。しかし、ゲームも、メディアの一種ではないでしょうか。
映画や小説は、主人公の動作が決まっています。ゲームは、主人公を自分が操れるようになっている。それが違うだけです。
その違いを、大きいと思う人はゲームとメディアを分け、小さいと思う人はゲームとメディアを同じ(ゲームはメディアの一形態)と考えるようです。
では、この違いは、大きいのでしょうか。それとも小さいのでしょうか。
しかし、この疑問には、答えることができません。大きい、小さいとは相対的なものであり、見る人によって「大きさ」が異なるからです。そして、絶対的な尺度が存在していません。あるいは、皆が納得できる基準となる尺度、とでも言いましょうか。
あるいは、「意のままに操れる」というところが、違いとされるのかもしれません。果たして、「意のままに操れる」ということは、そんなに大きな違いたり得るのでしょうか。
最近、コスプレが流行っていますね。そんなことはない?いえいえ、子供服売り場へ行ってみてください。私が子どもの頃は、せいぜいキャラクターの絵がプリントされている程度だったように思います。しかし今は、キャラクターのコスチュームがプリントされていたり、コスチュームそのものが売られていたりします。これらは、子どもが、アニメのキャラクターになりきるため、すなわち、意のままに操るためのものではないでしょうか。
アニメの主人公は、勧善懲悪だからいいのでしょうか。しかし、アニメの主人公にしか人気がない、なんてことはありません。機動戦士ガンダムの主人公はアムロ・レイ、あるいはガンダムではないでしょうか。しかし、実際に人気があるのは敵役のシャア・アズナブルであったり、多彩なジオンのモビルスーツではないでしょうか。人造人間キカイダーでも、敵役のハカイダーの人気が高く、後にスピンアウトしています。ヤッターマンも、ヤッターマンより悪玉トリオの人気の方が高いです。そうでなければ、後のシリーズでも継続して出演したり、リメイクでも同じ声優を起用したりはしないでしょう。このように、必ず善として描かれる側に人気が集まるわけではありません。
このように、「意のままに操れる」とか、「主人公は善」であるということは、影響を受けること、受ける対象とは関係がないようです。
私には二人の子供がいますが、子供たちに、あまりゲームをさせません。それは、ゲーム脳を心配しているからではありません。
一つは、ゲームに夢中になるあまり、時間やしなければならないことを忘れてしまうから。挙げ句の果てに、嘘をついてまでゲームをしようとし出したから。
一つは、自分の経験的に、目が悪くなるから。眼鏡は不便です。子供も、何が嫌なのかわかりませんが、「絶対いや!」と言っています。「嫌ならするな」、が通じるなら、楽なんですけどね。
一つは、ゲームの話しかしなくなるから。これはゲームに限らず、ポケモンもそうなのですが。なんのことかわからないので、会話が繋がらなくなります。
一つは、きりがないから。新しいゲームが出るごとに「あれ買って」「これがしたい」と、うるさいこと。ギャラクシーが終わってないのにスマッシュブラザーズを買って、それも終わってないのにマリオカート(は、買ってない)...今はサッカーでしたか、あれのコマーシャルを見ながら「マリオが・・・」「ルイージだと・・・」
今の子どもが、短絡的に暴力に走るのだとしたら、それはゲームよりも、ゲームをさせていた親にこそ、問題があると思います。
「親の顔が見たい」。行いの悪い子どもに対して、このようなことを言うことがあります。子どもは親の鏡です。親が短絡的に暴力をふるうから、子どもがそうなるのではないでしょうか。
ちなみに、口うるさい親から生まれたうちの長男は、口が達者です。しかし、妹はそうでもない。親という環境も影響を与えているけれども、生まれ持った性格も、やはり重要な要素なのでしょう。一口に「これが原因」とは言えないですね。難しいものです。
思い返してみると、昔、何らかの事件で、「**のような事がしたかった」という事件があったでしょうか。あったと思うのですが、一人が思うことは、みんなが思うことなのでしょうか。あるいは、この間刑が執行された、連続幼女誘拐殺人事件の人。宮崎勤でしたか。あの人の部屋が、いわゆる「オタク グッズ」であふれかえっていたために、「オタク=危険」というような図式が生まれ、何かによってすり込まれたのではないでしょうか。
人が「おそれる」ものとは、なんでしょう?自分に理解できないものです。
「死」や「魂の存在」は、理解しにくい、理解したくないものの最たるものだと思います。これらへの恐れから、宗教が生まれます。宗教によって死を超えたところのものを見いだし、安心を得ます。
「暗闇」も、先が見えないことから、「死」の象徴とされ、恐れの対象となります。そのため、夜の闇には様々な「物の怪」が潜んでいました。
日本においては、「恐れ」は「畏怖」として、生活の中に共存するものとして存在していたように思います。ところがいつの頃からか、「克服しなければならないもの」とされたように感じます。そして、「恐れ」による「教え」を理解せず、「迷信」と笑い飛ばすことで、恐れを克服したと、「勘違い」をしているようです。
このような勘違いが、「ゲーム脳」にも当てはまると思います。人を殺すという、理解し難い行動がある。この行動を理解しないと、自分がその対象になるかもしれません。したがって、恐れなければならない対象です。
そこで、恐れを克する、理解するために、同じような何かを探す。すると、人を殺すシーンがあるゲームという存在を見つける。そこで、「ゲームをやり過ぎて、夢と現の区別ができなくなった」と「理解」する。簡単にやり直すことができるゲームに対して、「ゲームと同じように、現実もリセットできると錯覚している」と「理解」する。そうすることで、「恐れ」を克服したと、勘違いする...
ま、そんな簡単なモンじゃないと思いますけど。
投稿日時 : 2008年7月14日 22:41