光母子殺害:【本村洋さん会見詳細】(毎日新聞)より:
被害者遺族は司法に感謝して、被告人はおのれの犯した罪を後悔して、社会が正義を再認識し、司法が威厳を保つことで、民主主義、法治国家は維持されると思いますので、そういった判決が出たことを心から感謝しております。
決して喜ばしいことではないと思っています。厳粛な気持ちでこの裁判所の判決を受け止めています。遺族としては当然、応報感情を満たされたわけですから、報われる思いはありますが、社会にとってみれば、私の妻と娘、そして被告人の3人の命が奪われる結果となったわけです。これは社会にとって不利益なことです。
私はこの事件にあってからいろいろ考えておりますけれど、やはり刑法っていうものは社会秩序を維持するための目的を達するための手段だと思っています。死刑という大変重い判断が下されましたが、これで終わるのではなくて、私たち遺族もこの重い判決を受けて真っ当に生きていかなければいけないと思いますし、社会のみなさまにも、どうすれば犯罪の被害者も加害者も生まない社会を作るのか、どうすればこういう死刑という残虐な、残酷な判決を下さない社会ができるのかを考える契機にならなければ、私の妻と娘も、そして被告人も犬死だと思っています。死刑の存廃等の問題が騒がれるようになるかもしれませんけど、刑罰はどうすれば私たちが安全な環境を作れるかということを考える契機にならなくてはいけないと思いますので、そういった方に社会が向いていくことを望みます。
どういう意図で出てきたのかわからないけど、この事件の被告が、被害者や遺族を非常に侮辱する言動をしたことが報道されています。その上で、社会にとってみれば、私の妻と娘、そして被告人の3人の命が奪われる結果となったわけです。これは社会にとって不利益なことです。
と、被告も並べることができるこの人はすごいと思う。
すごいって、何が、だよ。
ここで、自分の感情に流されることなく、社会という全体を俯瞰する立場から発言をしている。自分の感情に流された言葉だけではない。このような目を持てる自制心や視野の広さに感服する。
[雑記][社会]死刑へのハードルという言葉(novtan別館)より:
胸を張るって一体なんだろう。堂々と罪を償うことが出来るのであれば、それが死刑である必然性はあまりよくわからない。
この言葉を見て、改めて死刑の必要性について考える必要があると思わされた。被害者やその遺族が社会に向き合うために死刑が必要なのだとしたら、それは社会が未成熟な証明であるように思える。社会そのものが死刑を必要としていない限り、その合理的な正当性というのがどこにあるかわからなくなってしまう。死刑が必要な理由は犯罪者の側になければならないと思う。
私見。罪の対価、ではないだろうか。2人の人間を殺した。その罪を償う必要があるということを自覚すること。罪の対価としての罰を受け入れるということ。その罰が自分の死であること。だからこそ、胸を張って
の後に胸を張れるまでには相当苦悩を重ね、自らの死を乗り越えて反省しなければいけないと思う
と続くのではないだろうか。
本村さんが求めているのは、「犯罪者の死刑」ではないと思う。「犯罪者の償い」ではないだろうか。その償いとして、今回は「死刑」が妥当だと思われた。「死刑」を求めたのではなく、「罪に見合う償い」を求めたのではないだろうか。
実は、本村さんが本当に求めたものは、まだ得られていないのではないか。それが、「被告の反省文は「生涯開封しない」」ではないかと思う。
本村さんが求めているのは、なぜ自分の妻と子が殺されなければならなかったのか。なぜ被告は、二人を殺してしまったのか。その理由ではないだろうか。
今回、差し戻しで被告の言うことが大きく変わった。なぜ?差し戻しでの証言が本当なら、1審2審での証言は嘘なの?そのことを、今担当している弁護団は明らかにしただろうか。(マスゴミが消してしまった可能性は大いに考えられる)
今回証言が大きく変わったことで一番損をしたのは、実は弁護士という職業ではないだろうか。いわゆる「成功」を得るために、前の弁護団は罪を認めることで量刑を狙い、今度の弁護団は罪の意識を否定することで量刑を狙っているのではないか。弁護士という職業への不信感がぬぐえない。弁護団と本村さん。どちらが「命」を真剣にとらえているか。私は本村さんのほうではないかと思う。
毎日新聞のこの記事にも、リンクを張っておく→育ち直しの歌:少年院から/14限目 光市母子殺害事件=毛利甚八 (土曜文化)(毎日新聞)
逆送とは、少年事件であっても公開の法廷で検察官が罪を証明し、刑事弁護人が少年の利益を守るために弁護するという攻防を行ったうえで、裁判官が「罪があったかどうか、どんな罪があったか」を確かめ(事実認定)、懲役や死刑など罰の選択(量刑判断)をするということだ。
もし光市の事件に死刑判決が出て、多くの人の胸がスカッとしたとすれば、その後に残るものはいったい何だろうか? ただの忘却ではないのか?
単に死刑を廃すればよい、という問題ではないと思う。死刑が必要のない世界にならなければならないのではないだろうか。そのためには、死刑は制度として存在し、実際に執行されなければならないのではないだろうか。
投稿日時 : 2008年4月23日 22:12