何となく Blog by Jitta
Microsoft .NET 考

目次

Blog 利用状況
  • 投稿数 - 761
  • 記事 - 18
  • コメント - 37042
  • トラックバック - 222
ニュース
  • IE7以前では、表示がおかしい。div の解釈に問題があるようだ。
    IE8の場合は、「互換」表示を OFF にしてください。
  • 検索エンジンで来られた方へ:
    お望みの情報は見つかりましたか? よろしければ、コメント欄にどのような情報を探していたのか、ご記入ください。
It's ME!
  • はなおか じった
  • 世界遺産の近くに住んでます。
  • Microsoft MVP for Visual Developer ASP/ASP.NET 10, 2004 - 9, 2011
広告

記事カテゴリ

書庫

日記カテゴリ

ギャラリ

その他

わんくま同盟

同郷

 

今日は直打ち。

まずは、前のエントリのネタもと。http://www.atmarkit.co.jp/news/200612/13/winny.html

「Winny裁判」で有罪判決、自由なソフト開発はもうできない?

新たなアイデアの登場を妨げる

開発者にとって新たなリスクの出現

リスク対策のガイドラインが必要か

このように、Winny 事件の判決が、ソフトウェア開発の現場にとって、脅威になると説いている。編者は @IT 垣内郁栄氏。

対して、ジャーナリストである佐々木俊尚氏の記事。http://www.atmarkit.co.jp/news/200612/15/winny.html

「Winny自体は価値中立で有意義」の司法判断、その影響は!?

Winnyの技術は応用可能で有意義、価値中立的と判決で明言

ソフトそのものに犯罪助長性はない

Winnyが技術者に問いかける、もう1つの問題

おわかりいただけるだろうか。

タイトルには佐々木氏の思惑は全くない。強いていうなら、最後の「Winny が技術者に問いかける、もう1つの問題」であろうか。これによって、佐々木氏が、一般に報道されていること、「犯罪に使われる可能性があるかどうかの判断を開発者が行い、少しでもあるなら刑事告発されるおそれがある」という問題の他に、問題があると考えていることがわかる。

本来、ジャーナリズムとは、事実を事実として伝えることが、責務ではないだろうか。そこに、編集に携わった人間の思惑を差し挟むことは、ジャーナリズムに反するのではないだろうか。

しかし。現在、スポンサーの意向など、事実だけではなく、報道サイドの思惑が追加されることが多々ある。そして、問題になることもある。

あるいは。

我々、報道を受ける側が、考えることをしなくなっているのかもしれない。

「人は考える葦である」とは、誰の言葉だったであろうか。「我考える。故に、我あり」と結論づけた学者もいた。

考えることをしなくなったら、いったい何になるのだろう?

投稿日時 : 2006年12月17日 18:50
コメント
  • # re: Winny 報道:書く人によって、こうなる。
    RUN
    Posted @ 2006/12/18 23:45
    考える葦って、漱石だっけ?
    エルゴコギトスムってデカルトだっけ?
    勉強したの随分昔だからスッカリ忘れてるな~。

    Winny問題っていうか、新技術発案問題と言った方が良いかな?
    については、結局の所、使う側も作る側も高い倫理観をもっていて、初めて自由が認められるべきなのかな?と。

    使う側も作る側も低い倫理観でしか考えないので有れば、作られた物は、どういう用法に用いられることになるかを浮彫りにしたのは間違いないですからね。

    そういえば、Jittaさんが最近良く話題にするメディア責任の部分でふと思ったんだけど、
    近年、違法コピー撲滅運動の広告が、TVCMや電車の中吊りで頻繁に見かけますが、そういう時流とWinny問題を並べてみると、なんとも矛盾に満ちた世の中かなとも思いますね。
  • # re: Winny 報道:書く人によって、こうなる。
    Jitta
    Posted @ 2006/12/19 22:04
    RUNさん、コメントありがとうございます。

    閑話:なぜこの内容で「貸金庫」や「家造り」なんだ?>Google Ads

    > 使う側も作る側も高い倫理観をもっていて、初めて自由が認められるべき
     「自由が認められる」という表現は、ちょっと違和感。いえ、同意なのですが。
     私の解釈では、「自由」は、選ぶことにおいてのみ、認められています。選んだことで発生する結果を受けることについては、自由は認められていません。
     カボチャの種を蒔いてトマトを獲ることは出来ないのです。
     こういうと、誰もが納得するでしょう。しかし、たいていの場合において、求めていることは「選択の結果を選択することの自由」ではないでしょうか。つまり、カボチャの種を蒔いて、トマトを収穫するか、にんじんを収穫するか、選ばせてくれ、と。

    > 違法コピー撲滅運動の広告が、TVCMや電車の中吊りで頻繁に見かけます
     現在の著作権法は、JASRAC を飼うためにのみあり、本来の文化的な利用を促進する用にたっていません。違法コピー撲滅運動の前に、著作権法の見直し、JASRAC の組織運営の見直しが必要だとは思います。
     おそらく、レンタル CD が認められた経緯を繰り返すつもりだったのでしょうが、それを真っ向から出したのは、間違いだったと思います。
     悪法であれ、法は法です。法に背くことをしたのですから、その点においては、裁かれて当然です。

    なんか、ずれた。。。
タイトル
名前
Url
コメント