1984年-1985年 23年前、新人として業界に入った時ですね。
この頃の出来事といえば、「NTT株式会社発足」、「日航ジャンボ機墜落事故」、
「任天堂のファミコンゲームがおおはやり」、「阪神タイガースが21年ぶりに優勝」
阪神ファンが橋からダイブして大騒ぎをしていた映像が目に浮かびますね。
この頃の流行りの歌謡曲は、「セーラー服を脱がさないで(おニャン子クラブ)」、「恋におちて(小林明子)」、「Romanticが止まらない(C-C-B)」などが流行っていました。
この頃の業界の概観
派遣法のない時代で派遣先から違う派遣先へ五次受けなどが当たり前に行われていました。
この頃からこの業界は人を派遣するという慣習があったと思います。
プラットフォームとしては
大型フレーム:IBM360,UNIVAC:COBOLで銀行向けなどのビジネス用途で,FORTRANで天文学技術計算などに使用されていました。
ミニコン:DEC PDP-11、制御用ホストコンピューターとして使用されていました。
オフコン:機種名がよくわかりませんがCOBOLで中小企業向けの業務アプリケーション開発に使用されていいました。
マイコン:一般向けとして富士通FM-7、NEC-PC8800、Sharp MZ80がゲームで使用されていました。
自分が働いていた現場は半導体製造機の制御ソフトを開発していました。
いわゆる組み込み系です。ターゲットCPUは Z80/8bit/Clock 8MHz/Max Memory 64KB
開発環境としてはOSがCP/M上でエディット、アセンブル、リンク作業を行い、
ROMにプログラムを焼き付けてターゲットマシン上で動作確認作業を行うという当時では
標準的な開発方法でした。デバッグ環境は貧弱で、ICE(イン・サーキット・エミュレータ)がまだなく、
アルミ製のアタッシュケース程の大きさの手製のデバッグ装置で作業を行っていました。
ソースデバッグではなく、マシン語レベルでのアドレスとレジスタの値を読み込んでいましたので、
16進数の読み方やアドレス計算は体に叩き込まれましたね。
バグの修正もソースを修正してアセンブリし直すと、それだけで6時間ほどかかるので、
ROMのマシン語を直接書き換えるパッチ作業というものを行い修正していました。
いわゆる人間アセンブラと化していましたね。
自分が新人の時に持っていた目標は「20代で日本一のプログラマになる」でした。
何をもって日本一とするのかなど考えずにただそう思っていました。
まあ、若かったのでしょうね。でも具体的な行動目標として2つありました。
- 「1年以内に1年上の先輩を追い越す」
- 「毎日15分以上勉強をする」
特に2つ目は、今でも若い人たちに言っていますし、自分自身も25年間続けています。
本を読んでも最初は15分で1,2ページしか読めませんが、慣れてくると
30ページ以上読めるようになります。完全に理解しなくてもいいから、とにかく読むことです。
2,3年も続けていると技術用語のボキャブラリが増えてきます。